「貫くこと」の大切さ。

VOL.253 / 254

長瀬 努 NAGASE Tsutomu

1961年生まれ 群馬県下仁田市出身
1989年に株式会社キャロッセへ入社。当初はJAF全日本ジムカーナ選手権にドライバーとしてシリーズ参戦、車両ならびに商品開発に従事。1990年、1992年、1999年に全日本ジムカーナ選手権C1クラスシリーズチャンピオンに輝く。以降はCUSCO World Rally Team総監督に就任。2012年、2013年にはプロトン社とチームを結成し、FIA アジアパシフィックラリー選手権の2WD部門で2年連続のタイトルを、翌年には独自チームで同ラリー選手権2WD部門マニファクチャラーズタイトルを獲得している。現職は2009年より務める。

 

「貫くこと」の大切さ。---[その1]

ラリーショップからスタートしたキャロッセ 2009年から代表取締役社長を務めている長瀬努さんは、同社のユニークさを強調しつつ今後の車業界、レース業界においてもキャロッセが貫いてきた仕事への姿勢が大切なのではないかと持論を投げかける──

 実家が農家だったので、幼い頃から自分の周りには機械がたくさんあったんです。耕運機のエンジンなど、父がメカ好きでそういうのをバラしているのを見てきて、自然とメカ好きになっていきました。だから、基本的には機械好きです。
 高校生になったらバイクに乗り始めて、高校生のうちに自動車免許も取ってすぐに車を乗り回し、車で通学していたくらいです。もちろん許されないんですけど(笑)、そんな時代でしたね。

キャロッセはラリーの聖地、群馬で生まれたラリーショップ。
その仕事への精神は先代から変わることなく引き継がれている。

峠から競技の世界へ

車やレースを好きになり、将来はその道に進みたい意志はありましたが、親には「どうしてもダメだ」と反対されました。進学した工業高校も機械関係ではなく、情報処理の学科。コンピュータ関係の勉強を高校ではずっとしていたんです。ただ、当時はその職種も今ほど多くなくて、最初に勤めたのは整備工場のメカニックでした。
 あの頃、若いっていうのもあるんでしょうが、将来のことなんて考えなかったし、目標もありませんでした。遊ぶことが第一。メカニックの仕事をしながら、夜には先輩に誘われて走りに行く日々です。当時はまだ峠走までいっていなくて、目的地まで何分くらいで着けるか? というライトな感じの走りを楽しんでいましたね。
 そこから一歩進んで、徐々に峠へ行くようになったタイミングで、職種を変えようと、メカニックからカーショップのスタッフに転身しました。タイヤホイールやマフラーを店頭で売ったり、富士スピードウェイのレースメカニックを手伝う日もありました。土屋圭市さんが現役で走っている時のニュープロダクションのスカイラインのメカニックに従事したこともありましたね。店には走るのが好きなお客さんがたくさん来るので、一緒に峠へ行ったりもしていました。
 峠走からさらに一歩踏み込むと、競技にたどり着きます。最初に出たのはダートトライアルのレース。ただ、あのカテゴリーは車がバンバン壊れてしまうので、すぐにジムカーナに切り替えました。今のキャロッセに入社したのはジムカーナをやっている最中の1989年です。キャロッセにはメカニックとして入社して、1年ちょっとで営業を手伝うようになり、その後はずっと営業職。LSD、ストラットバー、車高調を売るのがメインで、ちょうど車高調が流行り始めていた頃です。そうして仕事をしながら全日本ジムカーナ選手権に出続けて、1990年、1992年、1999年の3回、シリーズチャンピオンになることができました。当時の日本はまだモータースポーツ人気の全盛期で、全日本ジムカーナの参戦台数もすごく多い時代でしたね。

キャロッセの魅力

 自身のレーシングドライバー活動は2000年でピリオドを打ちました。会社から1999年で自身のレース活動を終えて、その後は監督といった立場で携わっていってほしい、と言われていたんです。その頃のキャロッセはすでにチームとしてレースに参戦していましたし、そのすぐ後からD1グランプリにも挑戦していました。そういう裏方に回る時期だと諭されたんです。
 また2000年には、会社からアメリカに住んで営業展開をしてほしいとも言われました。それだけは勘弁してください(笑)、ということで出張ベースでアメリカには通っていましたね。最終的に、職種としては営業部長までやって、その後に工場長を務めて、2003年に創業者が亡くなったタイミングで専務になり、社長職に就いたのは2009年からになります。
 社長になるからには、大きな夢や目標を持ってスタートを切ったと思われるかもしれませんが、そんなことはありませんでした。そこがこの会社の魅力と言えます。キャロッセは「自分たちが車遊びをしたいから一生懸命に仕事をする会社」。車遊びをする中で、自分たちが欲しいと思う部品を作って、それをより良くしたものを製品として販売していくことを目指しています。ただ、製作する上ではロットというものがあるので、そのロット分はちゃんと売っていくという責任はありますが、簡単に言えば自分たちが車で遊ぶためのものを一生懸命に作っている会社なんです。
 そのスタイルを今なお貫いているのが自慢できるポイントですし、自社ながらに面白いなって感じているところです。

現在のキャロッセ本社。過去のラリー業界で改造禁止の時代があったのを機に「クスコ」ブランドが誕生し、今ではそれを全面に出した営業展開をしている。

 

「貫くこと」の大切さ。---[その2]

ユニークという言葉では表現しきれない
キャロッセの「物づくりへの姿勢やこだわり」
それらが、今の新しいビジネス展開にも
今後のビジョンにも、すべてリンクしていることが
長瀬努さんの話を聞いて分かった

〝欲しいものを作れるけれど、責任を持ってそれを売らなければいけない〟という物づくりの姿勢から分かるように、キャロッセは利益だけを追求した商売をしてきたわけではありません。私がホンダのシティ(GA2)で初めて全日本ジムカーナのチャンピオンを獲った時はほとんど部品がなかったので、カムやクロスミッションを作り、もちろん製品化もしました。現在もそうですが、その商法だとどうしても「小ロット多品種」になってしまいます。利益を考えれば、もっとパーツを限定して、同じものをたくさん作って売った方が利益率も高いのですが、そのあたりは本気で物づくりをしている会社はどこも同じような葛藤と戦いながら、良い物を作ることにこだわっているのだと思います。
 好きなように物を作れる一方で、それが売れなければ次のステップに進めないわけですから、製品自体が高性能であることはもちろんです。加えて、競技会で結果が出ていることも、製品販売においてはとても大切な時代でした。全日本ジムカーナ選手権の中で、結果と性能を追求してバージョンアップを繰り返していった製品は、どんどん洗練されていきましたね。

ラリーショップからスタートしたキャロッセ。「昭和56〜57年頃、サスペンションはノーマル、ロールバーすら入れてはいけないというラリーの競技車両の規則が厳しくなった時代があり、その時にストリートブランドとして誕生したのがクスコです。完全に競技系とは切り離してブランド展開をしていきましたが、スーパーGTやスーパー耐久といったレースでは、キャロッセよりもクスコが前面に出ていましたね」。

拡がる旧車の幅

 キャロッセが、自動車離れが進む現代においても生き続けられる理由は、先のような物づくりへの姿勢だけでなく、「変わらないこと」を貫いてきたことも大きいと思います。変な話、30年間、値段が変わらなかったり、作るものが変わらなかったり、売れているものも変わっていなかったりするんですよ。変化が大切な一方で〝継続は力なり〟をしっかり体現できていて、最新車種を取り扱いつつ、旧車のパーツのニーズも非常に多いですね。自分と同じかそれ以上の世代の贅沢な趣味なのですが、パーツを作ると必ず買ってもらえます。いつ欠品するか分からないからスペアまで買ってくれる人も少なくありません。
 面白いのは、ひと昔前であれば車種は30〜40年前の車、たとえばハコスカ、Zが主だったのですが、それらの値段が高いのもあって、旧車の年式がだんだん新しくなってきて、今では昭和60年くらいのところまでゾーンが拡がってきています。うちの会社はその頃のパーツを今でも取り揃えているので、急に発注量が増えたりしていますね。現行の86は大人気で、数がたくさん出るのでいろんなパーツが要注意品番になっていますが、今は旧車に含まれる1980年代のソアラ(GZ20)もたくさん数が出たり、商売としては非常に面白い展開だと感じています。

ライバルは携帯電話

そうした新しい展開とは切り離して、自動車業界全体が今後真剣に考えていかなければいけないのが、若者の車離れのことです。
 昔は18歳になると誰もが自動車免許を取りに行って、中古なり新車なり車を所有することに一生懸命でした。それって、単純に女の子にモテたかったからです。今のタイがまさに日本のその時代で、基本的に女の子にモテたいから車を所有するし、チューニングをしているんです。女の子の目を引くためにマフラーも換えたい、という発想は20〜30年前の日本そのものです。
 なぜ日本は車離れが進んだのか? 車両自体が高い、保険が高い、都心だと駐車場が高いなど、さまざまな金銭的なハードルが多いようにも思えますが、一番は携帯電話の存在が大きいです。携帯電話のない時代は、女の子とデートする際、誰にも邪魔されず、会話を楽しむふたりだけの空間を作るのに「車内」は最適だったわけです。それが今は携帯電話のメールのやり取りで完結してしまう。会わなくても、連れ出さなくてもいい。バーチャルであっても、ふたりだけの時間をいくらでも作り出せるんです。
 私が一番嫌だなと思うのは、カーシェアの利用者が増えていくこと。車を所有することを楽しめなくなる人が増えるのは悲しいです。そんな時代の流れの中で、若者が再び車に価値観を見出せるきっかけを私たちはもっと真剣に考えていかなければいけないと感じています。

10年前からEVジムニーの開発にも力を入れてきた。「ラリーに限らずレースでも、今後はCVTやオートマに加え、電子制御とうまく付き合っていくことが大切です」と長瀬さんは話す。

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